戦国時代の終わり『大阪夏の陣』
江戸幕府体制が始まって天下の覇権は徳川家のものであった。
しかし、大阪城には豊臣秀頼とその母・淀殿がいた。
家康は後顧の憂いを絶つべく、1614年の冬に豊臣家を滅ぼすことを決意した。
こうして始まったのが「大阪冬の陣」であり、この合戦では大阪城の堀をすべて埋めることを条件に講和が成立した。
豊臣家としては少しでも時間を稼いでおきたかったのである。
この後、1615年の夏に戦国最後の合戦である「大阪夏の陣」が幕を開けた。
合戦当初、家康は堀を持たない大阪城を落とすことはたやすいことだと考えていた。
しかし、豊臣軍の武将は士気が非常に高く徳川軍は苦戦をしいられた。特に、真田幸村の戦いぶりはすさまじく、あまりの猛攻に家康は一時死を覚悟したといわれている。
そんな大激戦の末、大阪城は落城し天下を統一した豊臣一族は滅亡することになった。大阪夏の陣の後も家康は豊臣色の一掃を図った。
豊臣秀吉が神として祀られていた京都東山の豊国廟を破壊したのだ。
また、家康の息子の徳川秀忠は家康の思想を引き継いで、焼け落ちた大阪城の跡地に盛り土を施した後、豊臣時代に代わる新しい大阪城を建設している。
大阪夏の陣の後に、家康は「元和偃武」という言葉を発表した。この偃武という意味は武器を収めて使用しないということである。
つまり、元号を「元和」に変えると同時に大規模な軍事衝突はもうなくなったということを宣言したのだ。
詳細情報
- 大阪夏の陣:「徳川家康」対「豊臣秀頼」
- 勃発日:1615年5月6日
- 主戦場:摂津国大阪城周辺
- 勝者:徳川家康
- 敗者:豊臣秀頼
- 兵力:徳川軍(155,000)に対し豊臣軍(7,8000)
- 徳川軍参戦武将:徳川家康、徳川秀忠、伊達政宗、上杉景勝、藤堂高虎、佐竹義宣、立花宗茂、秋田実季、片桐且元
- 豊臣軍参戦武将:豊臣秀頼、真田幸村、長宗我部盛親、木村重成、明石全登、真田昌幸、大野治長、後藤又兵衛
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